2011年7月12日火曜日

2011年7月10日日曜日

日本長者分限帳

日本長者分限帳天保7年版元栄安堂 飯高氏資料

相撲の番付表と同様の形で日本の富豪32名を大関2名、関脇2名、小結2名、前頭26名
で表している。江戸から明治初期までに水野家の名が確認できるものが他に7資料あるらしい。
前頭上総唐金茂右衛門の名が確認できる。

2011年7月9日土曜日

東金 最福寺

最福寺 saifukuji
807年(平安時代)最澄によって建てられた。東金の中で最も古いお寺である。


最福寺の鐘
最福寺本殿


元禄16年(1703)11月22日元禄大地震発生。千葉県の安房や上総は津波も重なり甚大な被害を被る。
東金においても同様で本漸寺と御殿前池を越して対岸の最福寺もその被害にあっている。
最福寺十五世の日胤上人は、湖畔にあったかっての寺院の裏山を削り取り被害の少なかった本漸寺と同じ程度
の高さにするため湖畔より数十メートルも高い固い岩盤の上に移築。完成は、大地震から6年経った宝永6年(1709)
その時、本堂に使用された丸柱は江戸浅草の観音様の古材を譲り受けたもの。と最福寺では伝授されている。

東金を知行した板倉内膳正の屋敷は、金龍山浅草寺とは東本願寺を挿んで隣地にある。板倉家にとって知行地 東金
とは、徳川家康公、秀忠公、家光公(大納言)の御殿跡地であり、しんるいえんじゃ関係になる大奥筆頭近江局ゆかりの土地。家康公と関係の深い寺院が地震で被害をうけたのではとの情報を受ければ領主板倉重寛公は再建に必要な
木材の手配をしたに違いない。しかし早急に木を切り出しても建築材料にはならない。それならばと思案の結果寺社奉公の経験を持つ父重種(寛永2年9月19日卒す。65歳)に掛け合い元禄5年(1692)に行われた本堂大修理の折のものか浅草寺に確保しておいた木材の内長さ24尺(約7メートル)、直径1尺6寸(46センチ)の檜丸材46本。急遽譲り受け東金へ搬送。搬送の折多くの職人を伴い陣頭指揮をしたのが若き材木商人水野茂右衛門栄篤(25~31歳)

                        家康公ブロンズ像

  
      7世住職の日善上人は家康公と交流があり1614年一回目の鷹狩りの際二人で会談。
      8ケ月後大阪冬の陣慶長19年(1614)11月、直前にも駿府城内で会談。
      最福寺の現在の山岡日俊御住職がこの二人の関係を後世に伝えたいと1998年に建立。
制作逸話
家康公の顔 家康公ともなれば本当の顔は公表されていないため、調べた結果、日光輪王寺の(東照大権現霊夢象を参考にして制作もちろん久能山東照宮に許可をもらい千葉大の日展会員の上野弘道教授に制作依頼。
最福寺より本漸寺を望む